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2011年6月12日 (日)

亀井静香物語 (東大時代 友人の退学処分に抗議し、ハンストをし、命がけで、大学に撤回させた)

上京
亀井静香は広島の進学校、修道高校1年で自主退学をした、
その後、当時、東大に在学中の兄の郁夫を頼り上京。都立大泉高校に編入した。
編入したばかりのころは、250番目という成績であったらしい。広島弁を、同級生の女の子に笑われて、16歳の静香は、はずかしくて、成績がよくなろうと、がんばった、そして、卒業するころは、高校三年のときは、成績が常に 5番以内にあった。

1956年、東京大学入学。
東大入学後は駒場寮に入り、昼夜を問わずアルバイトで生活費を稼ぐ日々を送る。
家庭教師を1人週2回の割合で3か所こなした。
田舎の両親から生活費の仕送りをしてもらわなかったという。

アルバイトをしながらも、東大在学中、日本の古典武道である合気道を、習いはじめた。 明治神宮の、養神館に通った。
そこで、のちに明治神宮武道場至誠館名誉館長となる田中茂穂に出会った。
田中茂穂は日本最後の国士であった。 亀井は田中の影響をひどく受けた。
学生運動には参加しなかった。

またこの頃、苦しむ民衆の救済に身を挺した、大塩平八郎や西郷隆盛の本を読み傾倒する。
大塩は、頭で知るだけでは駄目で、それを行動に移さねばならなぬという 
「知行合一」 を唱えていた。

学生時代、亀井は、合気道3段となった。 (現在は6段である。)
これまでサークルだった合気道クラブを、正式に運動部に昇格させた。
さらに学生の合気道仲間を集めて 「全日本学生合気道連盟」 を結成。 
その初代委員長に就任した。 副委員長は大平正芳元首相の長男の大平正樹である。

亀井は、典型的な、体育会系の、バンカラ学生であった。 どてらを着て、縄で帯をしめて、下駄をはいて歩いていたという。
 
 あるとき、東大駒場寮の、駒場自治会委員長が、アメリカ合衆国の水爆実験反対を訴えるストライキを指導したことが原因で退学処分となった。
亀井は憤り大学に抗議するため、駒場寮前にテントを張り、向陵会の子分を引き連れてハンガーストライキを決行する。
支援する学生から、同情されて、夜になると、パンが投げ込まれた。
しかし、投げ込まれたパンには、亀井は、一切、手をつけなかったという。
1週間後、体調が悪くなり、ドクターストップがかかった。 亀井は、入院させられた。
しかし、亀井のハンストが功を奏し、大学当局はその友人の退学を取り消した。

1960年、東京大学経済学部を卒業。
別府化学工業(現・住友精化) に入社し、サラリーマン生活を送る。
しかし、テレビを見ていて安保闘争でデモ隊に対する警察の不甲斐なさに腹を立て、「俺が警察を強くしてやる」と一念発起。警察官になることを決意する。辞職して猛勉強を始めた頃、東大病院で癌の宣告を受けたが、後に誤診であることが判明。

国家公務員採用上級(甲種・行政)試験を、試しに受けたところ、3番の成績で合格した、警察官採用上級試験に5番の成績で合格した。成績優秀で合格したため、各官庁からオファーがきたが、亀井は、意思を変えなかった。
亀井の本来の希望であった警察庁に入庁した。

(続く)

(参考文献)
亀井静香―天馬空を行く!  (大下 英治著)
亀井静香 支持率0%の突破力 (山岡 淳一郎著)
亀井静香が吠える 痛快言行録(高橋清隆著)

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亀井静香元金融大臣は日本のチェゲバラ(続編) モラトリアム法案の動機
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亀井静香元金融大臣は 「日本のチェゲバラ」
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国民新党代表 亀井静香経歴 
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